夏の稚内犬橇大会 1

 
 

 

夏の稚内犬橇大会 1

日本のてっぺん、稚内で夏に犬橇の大会があると聞いたのは去年のことだった。

「うわ!出たい!」

『橇』に『北海道』で必要条件を満たした。ここ数ヶ月日曜出勤での作業が多く、それをぬってのイベント参加だった。いけるいけないを繰り返し行ける事が決まったのが1週間前だった。当日受付もあったが・・・・気が焦っていた私は申し込んでいたのでなんなく参加の方向になった。

稚内は北海道のなかで1・2を争う好きな場所である。町の大きさ、人の良さなんとも好きなところで楽しみにしていた。

今回の遠征から私の暇つぶしにナビが加わった、テレビも映画も見られるので気がまぎれるというものだった。

これで完璧な野宿ライフが待っていた。

 

2002年8月1日(木)

19時には出ようと思っていたのにそんな時には逃げられない残業がくるのもいつものこと。結局出たのは23時・・・・財布を忘れ取りに戻ったのでロスタイム30分もあった。

ヨレヨレで出かけた。

ナゴヤンマラミュート、39度の気温にも耐えているとは言え・・・・・

アメリカに黒人が連れてこられて300年。。。。今だに黒人の体脂肪率は変わらず、泳ぐと沈み、アスリートに向いた体をしている。それと同じで何世代日本で生まれ育ったとしてもマラミュートが持っているジーン(遺伝子)には体の内に熱を溜め外に出さない仕組みは今も健在だ。

日ごろ彼らがいるのは風通しのいい日陰の冷えたコンクリートの上である。できるだけ夜間に距離を稼いで移動しようと考えていた。・・・・・・・・・しかし、そんなものはものの1時間で打ち破られ岐阜も出ないうちに睡魔に襲われ、そのまま眠りについた。

 

2002年8月2日(金)

朝5時から再度走りだした。

・・・・はなたちは暑くなると下痢気味になる。1回目のトイレ出しの時にサラのうんこは柔らかくなってきていた。ヤバイヤバイ・・・・。

ピーカン照りのパーキングは地獄のように熱かった。アスファルトは燃え、エンジンを切らない車からは熱風が流れてきた。下道でいければ木陰も川もはなたちにいい状態での休憩が取れただろう。しかし日程的に高速を使って一気に北海道入りするしかなかった。アラスカの犬を日本の8月に長距離移動させるには日程に無理があった。今回の遠征の反省すべき点である。

冷やした車から犬をトイレに出すことがいたたまれないほど犬たちは暑がった。犬を休憩させているのか痛めつけているのか分からないほどだった。

そして2回目の休憩を終えたときには犬たちはバテバテになっていた。「どうしようか・・・・」と考えながら走り出してしばらくすると横になっていた優が立ち上がり私の方を見ている「優?どうした??」優はひたすら私の方を見ていた・・・・しばらくすると優はヒーと鳴き始めた。

「ヤバイ!トイレだ!」
「優我慢しろ!!次のパーキングは・・・・えっと・・・後17KMだ!」

こんな時ナビが役に立つ。

優を励まし、気を紛らわせるように声をかけ、優も座って見たり横になってみたりしていたが、最後優は「ヒ〜ン(もう無理!!)」と下痢便をシースルーのゲージの中でしてしまった。

私はバックミラーで一部始終を見守るしかなかった。

強烈な匂いが目を襲い、はなもサラも怪訝そうな顔になった。

一番かわいそうだったのは優だった。この失態をなんとか収めようとゲージの底を引っかいて隠そうとするが無論状況は悪くなるばかり

「優!もういいよ!!」次のパーキングで1時間かけて車の中を片付けた。

優は本当に熱い日でも下痢になることはあまりなくノーマーク気味だった。片付ける間、優は私の横で見ていた。うんこにまみれた優もきれいにして私がへとへとになってしまった。

この1件は優にへんなトラウマとして残ってしまい、この旅の間中優がうんこをするときは我慢して我慢して最後は車から一番離れたところまで走っていってしていた。相当嫌な経験だったようだ。

うんこネタには事欠かないnojiチームはしばらくモーレツな残り香の中、犬と旅行の醍醐味を味わった。

餌も控えひたすら日が落ちるのを願い北を目指した。次の休憩はギリギリまって午後にした。

木陰に車を停めようとバックしているそのとき丁度、仕事の仰天メールが届き「えぇ〜ッ!」と動揺した私はそのままガードレールにテールランプをぶつけ割れてしまった。目から入る文字の衝撃と同時にぶつかった衝撃が体にもあり相当驚いた。

バックをぶつけて・・・・そのまま車を廃車寸前にまで事故した年末を思い出した。

いかん!!気合を入れ直した。

仙台を越えたあたりで雨が降り出した。恵みの雨でこれで地面も犬も冷える!!と喜んだ。。。。のもつかの間1M前が見えないほどの豪雨となった80KM/Hで走っていた私も「コワっ!コワっ!」と叫びながら減速した。しかし、後ろにはトラックが走っていたはずで、追突されたらサラたちが一発でやられる!とハザードを出しどこかに避難しないと!と高速バスのバス停に停まった。なかなか先に進めない・・・イライラしていた。

猛烈な暑さか、豪雨に犬を外に出せないのでほとんど休むことなく青森入りとなった。

時刻は21時50分となっていた。22時20分のフェリーに乗るべくターミナルビルに駆け込んだ。カードで支払おうとして「ピー」時々限度額まで達してしまう私・・・何もこんな時に(T_T)・・・・車に戻り遠征費用として銀行の袋に入れて持っていたお金を探した。

ない。。。車の中の荷物を出してもない。。。。

暗いので見つからないかと・・・このままでは明日銀行が開いてからでは完全に稚内までたどりつけない焦っていた。あっちこっちの小銭をたして片道のフェリー代だけかき集めた。結局遠征費は出てこなかった。どこかで落としてしまったらしい・・・ついていない。拾った人はラッキーだ。

 

2002年8月3日(土)

1本フェリーを見送り、キャンセル待ちでなんとか次の便に乗ることができた。函館に4時についた。

もう回りは明るくなってきていた。そのまま野宿するはずだった森町の道の駅に行き、犬を出した。いつものオフシーズンの北海道ではないので朝5時にすごいたくさんの人がうろうろしていた。ノーリードは無理だったので3頭リードで散歩した。久々の3頭のリード付きの散歩、この腰にくる荒行、これはこれで楽しいものだった。

そのまま北上をして恒例の長万部温泉でリフレッシュした。

長万部温泉の駐車場で正面にある建設会社の従業員に囲まれたラルゴ。はなたちは車を守るために男連中を威嚇していたらしい。そして私が乗り込んだら甘えてくるはなを見て「こりゃだめだ、甘えん坊だ」といわれてしまった。

kazu一家が出かけるのに間に合ったので一緒に稚内入りするべく札幌に入った。ここまでの走行距離は1400KMを超えていた。稚内までの道程はそりゃそらすごかった。私は札幌を出たあたりで寒くて寒くて私だけがフリース&ジャージ姿になった。一目で内地の人間とばれてしまう格好だった。

なのに留萌あたりではみんなどこも海水浴でごった返していた。「そんなにしてまで、夏を楽しむのか?!」の問いに北海道の人は「今しかないんだもの」名古屋あたりで出かける内海や伊良湖なぞの生ぬるい汚れた海水をイメージして苦笑してしまった。

稚内までの日本海オロロンラインはすばらしかった。私の好きな宗谷の丘と同じ雰囲気の北の果てのイメージだった。オロロンラインから見るサロベツ原野・・・これは本当の原野で厳しい自然を物語っていた。網走送りとなった囚人たちの命をかけた開拓史を思い起こさせるほどのものであった。

「今度ゆっくり着たときここに1週間くらいいたろ。」と思った瞬間、鹿を発見。
「犬連れてじゃだめじゃん(-_-;)」

稚内についたのは夜8時前だった。ながいながい旅路であった・・・・。kazu家と稚内の温泉に入って大人しく稚内公園で野宿をした。気温はあまりにも寒く10度前後、犬たちは絶好調であった。風邪気味だった私は犬たちのためにドアを開けて寝るかどうか迷ったが開けて寝た。3頭とも朝日が昇るまでぐっすり寝たようだった。(稚内公園泊)